2014年2月5日から16日まで、国立新美術館をメイン会場に六本木各所で開催された平成25年度[第17回]文化庁メディア芸術祭受賞作品展。
今回の「文化庁メディア芸術祭を語る」は、本年度の受賞作品展をレポートします。
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第17回文化庁メディア芸術祭は、これまで同祭に親しんできた人ほど驚く内容になった。
今回の会場は明るく広い。ここ1〜2年は、映像プロジェクションのために全体の照明は抑えられ、作品同士の様々な干渉を避けるため、仮設壁によって展示ブースは細かく区切られてきた。だが今回はその真逆とも言える構成になっている。エントランスに立てば広大な会場の全容を一望でき、その全体に白く柔らかい光が降り注ぐ。「別の美術展会場に迷い込んでしまった?」。そんな風に困惑した来場者も少なくなかったのではないだろうか。

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今回の会場設計を担当したのは建築家の中村竜治。今回の空間について、彼は次のように語る。
「今回、空間設計の目標にしたのは『カテゴリー分けがはっきりしない空間をつくる』『1万人の来場者に対応できる明快な導線をつくる』という2つでした」。
一聴すると矛盾して思える2つの目標だが、特に前者はメディア芸術祭の方向性を決定づけるきわめて重要なものだ。しかし、それについては後述することにして話を先に進めよう。
「もはやメディアと呼ばれるもの(インターネットや紙媒体など)は至るところにあります。とすれば、メディア芸術祭という一つの場所に集める意味を考えなければいけない」。
そう感じた中村は、ジャンル間の境界画定が曖昧になったとも言われる現代の文化環境を象徴するかのように、作品同士が地続きに点在・並列する空間をつくった。また、「明快な導線」の代わりに設置したのが、会場天井部を横断する何百本ものロープである。会場中央に向かって全体が低くたるむように張り巡らされたロープがつくる、すりばち状の空間は、体感的に中央部は狭く、周縁部は広く感じられる。これによって、来場者は知らず知らずのうちに外周を周遊して移動するように促されるという仕掛けだ。

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ここからは、各部門の代表的な作品をピックアップしながら、それぞれの「共通点」について考えていこう。
まずアート部門。優秀賞を受賞したJames BRIDLEの《Dronestagram》は、世界的に人気の写真共有SNS「Instagram」を主に用いたWEBサイトである。「アート部門なのにWEBサイト?」と思われるかもしれないが、本作はソーシャルネットワークが持つ情報の伝播性を利用したインターネット上のプロジェクト作品だ。

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近年、中近東での戦争や要人暗殺に、ドローン(無人航空機)が用いられている事実が広く知られるようになった。本作は、新聞報道などで明らかになった爆撃箇所を人工衛星がとらえた写真データと連動させ、その衛星写真をSNS上に次々と投稿していく。1990年の湾岸戦争でミサイルのカメラが地表の標的へと迫る映像は、私たちに戦争の質的変化(テクノロジーの発達がもたらした、攻める側/攻められる側の圧倒的な不均衡)を伝え慄然とさせたが、本作はそれをより高精度・高解像度のドライな目線で伝えている。手の平に収まるスマートフォンで見られる衛星写真は、例えば死体や立ち上る煙といった直接的な戦争の表象を映し出しはしない。写真、テキスト、GPS座標、そのすべてがデータに還元され、私たちの元に淡々と届く。本作がテーマとするのは「監視、暴力、戦争とネットワーク技術との関係と不調和を示す」ことだが、この奇妙な現実感は、遠い国で今も続く戦争と、私たちが生きる日常の不調和をも示しているだろう。

エンターテインメント部門では、大賞の《Sound of Honda / Ayrton Senna 1989》に注目したい。F1ドライバーのアイルトン・セナが1989年に鈴鹿サーキットで樹立した世界最速ラップを、当時記録された走行データに基づいて音と光で擬似的に再現したこのプロジェクトもまた、データによる現実感の獲得に核心を持つものだ。真鍋大度や澤井妙治ら、メディアアートや電子音楽の領野で活動するアーティストらによって視覚化&聴覚化されたアイルトン・セナ(の走行の軌跡)は、鈴鹿に集まった関係者たちの心を激しく揺さぶった。現在の先端テクノロジーの力を借りれば、もはやそこにはいない「ゴースト」の声や気配を現世に降霊させることも可能なのかもしれない。

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きわめて簡素な展示となった《Dronestagram》に対して、「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」は独立した展示空間を与えられたが、アートとエンターテインメントという異なる部門に登場した2つのプロジェクトには共通する部分が多い。双方とも、擬似的なデータから生じる(あるいは、データによって翻訳された)現実感こそが、情報技術に満たされた現代社会において、人の感情を大きく動かすという確信を持って制作されている。また、既に失われたものを代弁しうる現代の霊媒(メディウム=メディア)としてデータを捉えているのも重要な共通点と言えるはずだ。


アートとエンターテインメントの2部門においてコンセプトを共有した作品が登場したことは、メディア芸術祭が目指す表現の領域横断性がより具体性を持ちつつあることの実証とも言えるだろう。そんななか、アニメーション部門で大賞を受賞した『はちみつ色のユン』は、また異なる「横断性」を示している。

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バンドデシネ作家で映画監督のユン、ドキュメンタリー監督のローラン・アボローが共作した本作は、韓国で生まれ、その後ベルギー人一家の養子となったユンの自伝的アニメーションである。実写とアニメーションパートを組み合わせた本作が提示するのは、韓国人でもベルギー人でもない自分の存在意義に戸惑い、苦悩し、成長するユンの姿である。受賞者インタビューのなかで彼はこう語っている。

「若い頃は、他の国の文化に接することで別の自分になりたいと思っていました。日本のアニメーションには特に影響を受けて『日本人になりたい』と思ったこともあります。本作をつくるなかで、それまで拒んできた『韓国人であること』を受け入れていきますが、それは日本を経由して韓国を発見することでもあった気がしています」。

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アニメでは高畑勲『火垂るの墓』、マンガでは大友克洋『AKIRA』に強い影響を受けたという彼は、終始フランス語でインタビューに応えていた(ベルギーではフランス語も主要な言語として使われている)。韓国で生まれ、フランス語を流暢に操るベルギー人として育ち、日本のアニメーションやマンガに影響を受けて作品をつくってきたユン。一つのところに留まるだけでは把握できない、現代の移ろいゆくアイデンティティの現実感が、作品と彼の身体に宿っているようにも感じられた。


荒木飛呂彦が描く「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズの最新作『ジョジョリオン』の大賞受賞には、ネット上では「なぜいまさら『ジョジョ』に?」という声もあった。たしかに第1部の連載開始から28年が経ち、アートやファッションの世界、さらに海外での評価も高い同作への贈賞を「いまさら」とする見方は妥当なものかもしれない。
だが、現在第8部まで続く『ジョジョ』が一貫して掲げる「人間讃歌」、ひいては「親から子へ、子から孫へ」というテーマは、諸文明が長い時間をかけて積み重ねられてきたヒューマニズム、芸術・文化の連続性・継承性と強く連関するものと言える。内覧会での受賞インタビューにおいて荒木は以下のようにスピーチしている。
「受賞時の会見で、僕はマンガ制作を農業にたとえましたが、それは仕事場という畑で毎日マンガを描くことは農業に似ていると思うからです。(マンガ制作は)身を削ってつくることではなく、淡々と育て、つくることです」

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突然変異的に現れ、それまでの価値観を揺さぶり、覆すような清新な表現がもたらす恵みは大きい。しかし、長い時間をかけてじっくりと培われた表現が持ちうるテーマの強さや歴史の連続性もまた、豊かな恵みだ。四半世紀を超える長期連載によってそれを示している『ジョジョ』に対して大賞が贈られたことは、「先端的なメディア芸術を顕彰する場」としてメディアアートや先進テクノロジーに注目が集まりがちなメディア芸術祭のこれからを占う意味でも、大きな意義を持つことだろう。

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『ジョジョリオン』のマンガ部門大賞と、ある意味で対を成すのがコミティア実行委員会代表である中村公彦の功労賞受賞と言えるかもしれない。これまでメディア芸術祭における功労賞というと「日本のメディア芸術界に大きく貢献」し過去に大きな業績を挙げた人物の顕彰という側面が大きかったが、52歳の中村は今もコミティアの代表として現役で活躍している。

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周知のようにコミティアは、1984年にスタートした創作同人誌を中心とする「オリジナル作品」の展示即売会だ。じつはメディア芸術祭との間接的なつながりは強く、武富健治、こうの史代ら歴代のマンガ部門受賞者にはコミティア出身者が多く見られる。中村本人は「作家は作家、コミティアが輩出したとは考えていませんよ」と語るが、商業誌での発表の機会が限られる個性的な才能のマンガ家たちが、コミティアの存在を自らの創作活動の支えにしてきたことは疑うべくもない。2014年に創立30周年を迎えるコミティアだが、100回記念回ではたった1日の開催に5,600サークルが出展し、2万7000人の一般参加者が来場したそうだ。また、一般参加者から出展参加者になる割合も高く、今後も日本のマンガ文化を支える優れた描き手と読者の揺籃(ようらん)の場として多くの支持と信頼を得ていくだろう。
「まだまだ私は現役ですから、功労賞をいただいて驚いています(笑)。でもこれは『これからも頑張れよ』という、賞の先渡しなのかなと思っています」

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マンガ部門大賞を受賞した『ジョジョリオン』。功労賞を得たコミティア実行委員会代表の中村公彦。一つのマンガ作品と1人の人物に贈られたこれらの賞は、メディア芸術祭に兆しつつある歴史意識の顕われと言えるかもしれない。
絵画、彫刻、写真といった既に組織化がなされた芸術表現には収まらない新しい形態の作品を包括し、現代の表現を探るための場としてメディア芸術祭は機能してきたと筆者は考える。もちろん、例えばメディアアートにしろアニメーションにしろ、時間を遡れば1世紀以上の歴史を持っている。だが、日々進化する表現技術と密接に付随するメディア芸術は、今なお進化と発見の過程にあり、『ジョジョ』やコミティアが現在進行形で形づくる歴史が存在する。そしてそれは長い歴史における「小さな一歩」では終わらない……そんな予感に満ちてはいないだろうか。
だいぶ長くなってしまったが、冒頭の『カテゴリー分けがはっきりしない空間をつくる』という、中村竜治が掲げた目的に言及しつつ、今回のメディア芸術祭を総括したい。

前段で既に述べたこととも重なるが、現代の文化環境において個々のジャンルを完全に峻別してとらえることは、以前ほど明快な基軸ではなくなってしまった。もちろん、個々の分野において育まれてきた歴史や技術的研鑽に眼差しを向けることは今なお不可欠だが、同時に総体として時代や文化の群れをとらえることも重要である。その意味で、今回のメディア芸術祭は、各部門、各作品にフォーカスするのではなく、それらを包括する「メディア芸術」自体の意味を問う空間であったように感じる。エンターテインメント部門審査委員の久保田晃弘は今回の会場設計について次のように述べている。
「空気や光のようにメディア芸術が降り注ぐイメージを持つ今回の展示は、今の時代に適応しているように思えます」
この発言からは、二重の意味が見出されるべきかもしれない。メディア芸術祭において扱われる表現が日常化・環境化したことで生まれた普遍性の肯定。あるいは、芸術が持つべき自律性や歴史観が失われつつあることへのかすかな危機感。この2つは表裏一体であって、まだ歴史の浅いメディア芸術に対して、不断に投げかけられるべき問いかけでもあるだろう。
しかしながら、これらの問いかけに対する小さな返答を、筆者はメディア芸術祭の会場に見出すことができたようにも思っている。それは、各所に点在していたメディア芸術を説明するパネルだ。現代のメディア環境の茫漠さを表象するような広い展示空間において、楔(くさび)を打つように掲示されたパネルのテキストからは、メディア芸術を構成するメディアアート、マンガ、映像などの歴史を踏まえ、それらを統合し、改めて歴史化しようとする芸術祭側の意思が感じられた。

 例年のように混雑をきわめた会期中、このパネルすべてを熟読できた来場者は多くないかもしれない。しかし、メディア芸術祭という空間に密やかに結ばれたメディア芸術の歴史の星図は、かつて砂漠や大海原を旅した遊牧民、船乗りたちに進むべき方角を示した北極星のように静かに輝いているように感じられる。17年目を迎えたメディア芸術(祭)の歴史が、ようやく語られ始めたのかもしれない。

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メディア芸術祭公式WEBサイト ⇒ http://j-mediaarts.jp/
※公式WEBサイトでは歴代の受賞・選出された受賞作品・受賞者情報を一覧で見ることが出来ます。

文章:島貫泰介
写真:御厨慎一郎