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 333ノテッペンカラトビウツレ。
 地上333mの東京タワーのてっぺんにつかまる男の子と女の子。タワーのふもとでは大人たちが大騒ぎをしている。救助に来たヘリコプターに、二人は飛び移り、その時、ある町工場の産業用ロボットに、意識が生まれる。

 楳図かずおの「わたしは真悟」(1982‐84年『ビッグコミックスピリッツ』連載)を舞台化したミュージカル「わたしは真悟」は、原作の最初のクライマックスというべき場面から幕を開ける。二人がなぜ東京タワーに登ることになったのか、その経緯は、この後の展開の中で遡及的に説明される。

 最初のバージョンの単行本では10巻にわたって、圧倒的なスケールと切迫感で展開するこの作品をミュージカル化すると聞いたとき、初めは当然驚いたが、演出と振り付けはアルベールビル・オリンピックの開会式と閉会式を演出した世界的な振付家・演出家のフィリップ・ドゥクフレ、演出協力にKAAT神奈川芸術劇場の芸術監督・白井晃、主人公の真鈴(まりん)と悟はそれぞれ高畑充希と門脇麦が演じ、音楽はトクマルシューゴと阿部海太郎…とスタッフ、キャストの情報を知るにつれ、これはもしかしてものすごく面白いものになるかもしれないと感じた。そしてその予想以上に、素晴らしい舞台化が実現した。公演はKAAT神奈川芸術劇場を皮切りに、浜松市浜北文化センター、富山市芸術文化ホール、ロームシアター京都、そして東京の新国立劇場で、2016年12月2日から17年1月26日まで行われた。筆者は新国立劇場1月25日のソワレで観ている。

 ここで改めて原作の概要を確認しておこう。運命的に出会った二人の小学6年生、悟と真鈴は、町工場の産業用ロボットに、二人に関する情報、そして様々な言葉を入力する。やがてイギリスに引っ越さなければならなくなった真鈴は、悟に結婚して子どもを作ろうと呼びかける。悟の、でもどうしたら?という問いにロボットが出した答えは「333ノテッペンカラトビウツレ」。二人がそれを実行したとき、ロボットは「ニンゲン」として、二人の子ども「真悟」として、覚醒する。そして真悟は、引き裂かれた真鈴と悟にそれぞれのメッセージを伝えようと海を渡り、その過程でさらに知能を発達させ、通信衛星を介して全世界の機械、さらには生物とまでつながり、より高次の存在になっていく…。

 AIがもたらすものへの関心が高まる今日の高度情報化社会を予見した作品であるとともに、狂気と紙一重の子どものピュアネスとその終わりという、楳図作品に頻繁に取り上げられる普遍的な主題が、この子どもの時間はもう終わってしまうという切迫感の中、次々に起こる不可解な「奇跡」とともに展開する、超絶的な傑作と言ってよい。

 この作品をミュージカル化するにあたって、制作チームはどのような工夫をしたかという問いは、おそらく適切ではない。むしろミュージカル化すること自体が、この漫画作品を生身の人間が舞台で演じる形にする上での最大の工夫であり、この公演の最大の勝因だと言えそうだからだ。

 もちろん、足掛け3年連載された長大な原作を、2時間の演劇にする上で、まずどこを切り落とすのかという脚本上の課題があったことは間違いないだろう。原作には、真悟の覚醒と衰弱の過程で、様々な謎めいたエピソードが付随的に展開し、それを担う様々なキャラクターが登場する。作中で明解な謎解きが行われないままに終わるものも多いが、何度も通読すれば整合的な推測をすることは可能な、それらの難解な要素の多くを、谷賢一の脚本は思い切って落としている。

 だがその代わり、真悟の道行きを助けることになるキャラクターたちの役割の多くを、原作でも重要な脇役である8歳の少女、しずかに担わせる形で、集約している。これによって物語は、枝葉を落としてその幹と根をあらわにしたものになった。原作終盤の、段階的に真悟が衰弱していき、ついに18文字のカタカナの組み合わせでしか言葉を作れなくなってしまうにいたる、切なさの募る展開は、18文字になるくだり自体が省略され、いささかあっさりしたものになっていたが、これは時間的な制約を考えると難しかったのではないか。全体として谷は、考えられる最良の整理と再構築を行なったと言えるだろう。

 そしてこの脚本が、ミュージカルになる。舞台の上の役者の、セリフと身振りが随所で歌と踊りになる。「そんな急に歌いだすの変じゃん?」というツッコミを棚上げしなければ、ミュージカルの世界に「入る」ことはできない。こんなことは「普通」の「現実」にはないけれど、これはその時のその人物の感情を強調する表現なのだ、あるいはさらに踏み込んで、「普通」の「現実」にはあり得ないような非日常の体験、別の「現実」を提供するための仕掛けなのだ、という理解を、作り手・演じ手と受け手が約束事として共有すること。それが、ミュージカルが成立するための前提条件となる。

 一般に演劇は、(一般的な)劇映画と比べると、このようなあらかじめ共有しておくべき約束事が多い。そしてその約束事は基本的に観客が体験する、意味ある要素に二重性を与えるものである。すなわち、この建物のセットは明らかにハリボテだが石造の建物だとみなす、ここにいる黒子はいないものとみなす、音しかしていない雨は降っているものとみなす、等々の「みなし」である。ミュージカルは、その「みなす」操作を最も多く、強く、観客に要求する形態だと言えるだろう。このことが、「わたしは真悟」という作品を別の媒体に移す上で、その本質に最もよく適合していたと言えるのだ。

 「わたしは真悟」に限らず、楳図作品においては、すべてがずっとおかしい。平穏な日常を描いているはずの場面であっても、会話のテンポがおかしかったりリアクションが大きすぎたり、「普通」の「現実」を「自然」に描き出しているとはいいがたい不穏な非現実感が漂っていて、それはある時点でとてつもない恐怖や笑いとともに我々の「現実感」を粉砕し始める。そして、にもかかわらず、楳図の描く人やモノには、われわれの生理に直接訴えるような生々しさとしての「リアリティ」が備わっている。例えば人の皮膚はそんなふうには破れないはずだと、アタマでは思っていても、もうわれわれの目はその皮膚の破れ方の痛みを感じ取り始めている。

 「普通」の「現実」に似ているか否かで言えばまったく「リアル」でないにもかかわらず、そこには間違いなく別のリアルが存在すると全身が感じとるようなリアリティがあるという、この二重性こそが、楳図作品の本質であり、ミュージカル「わたしは真悟」がミュージカルという表現形態を選ぶことで見事につかみ取っていたものだ。

 どう見ても小6女子の体型ではない高畑が真鈴を演じ、どう見ても小6男子の体型ではない門脇が悟を演じる。どうみても8歳の体型ではない大原櫻子がしずかを演じ、どう見ても白人ではない小関裕太がロビンを演じる。そしてどう見ても人間の肉体を持った成河が、人間には似ても似つかぬ産業用ロボットの形を持った真悟の精神を演じる。このメインキャスト5人の演技はいずれも素晴らしく、それ故にこそ、演じられている役柄と、それをそこで演じている肉体の存在感との距離もまた、際立つことになる。門脇麦すごい!小6男子にしか見えない!と私たちが思うとき、まさにそのような思い方において、そこに門脇麦がいることを忘れ去ってはいない。私たちは門脇麦が悟を演じているという二重性をそのまま受け止めている。

 私は演劇の専門家ではないので推測としてしか言えないが、おそらく「普通の」ミュージカルにおいては、最初にあまたの約束事を受け入れてしまった後は、そのような約束事を受け入れたこと自体を忘れて作品世界に没頭できるように導かれる演出や演技が望ましいとされているのではないか。だがこの作品は意図的にその約束事を見えるままにとどめ続けていて、それこそがこの作品の面白さになっていたと言える。

 トクマルと阿部による音楽は、改造したオープンリールテープレコーダーを手で楽器として操作する3人組のユニットOpen Reel Ensembleによって舞台の上で「演奏」されている。舞台上手の手前には「かつての未来」を象徴するかのようなオープンリールテープレコーダーが3台並び、それを操作する3人とともに大きな存在感を、劇中ずっと示し続ける。奏でられる音楽・効果音も、電気を介していながらアナログであり、「かつての/未来」という二重性を体現する。

 「重力が無くなる」と白井が言うドゥクフレの超現実的な振付を演じる役者たちの肉体は、しばしば黒子達によって支えられており、時にはむしろその黒子達の動きにこそ観客は目を奪われる。

 そしてこの作品の成否を握るとも言える、真悟を演じる成河の肉体の動きは、人間の身体がこのような動きをなしうるものなのかという驚きを感じさせる異様さによって、真悟の精神の苦悩と覚醒と衰弱という抽象的な現象を、見事に具体化していた。

 原作より役割を膨らませたしずかは、悟と真鈴以上に幼く、それゆえに少し引いたところから、事の成り行きを最もよく見ている存在であることが明確になり、観客に代わって物語を認識し、真悟に寄り添う存在となっていたが、これも大原櫻子がよく消化して演じていた。原作でも針が降りきれっぱなしのロビンについても、小関裕太が、それでも何らかの葛藤は抱えていそうなことをうかがわせつつ、思い切った演技で駆け抜けていた。

 舞台の空間を形作るセットと映像についても、原作漫画に似せることも現実にありそうなものに似せることも目指さず、原作漫画の表現の本質をつかみつつ、それを別の形で具体化するという方針が徹底されていて、目を見張るようなアイデアに満ちたものばかりだった。趣向が過剰と評する向きもあったようだが、過剰さこそ楳図作品の特質ではないか。特に真悟と世界中の機械がつながっているときにネットワーク上を伝わる「機械語」のイメージを、ダンサーたちの踊り・動きで表現した映像を、舞台上の踊りと組み合わせる表現は素晴らしかったと思う。

 最後にもちろん、歌と踊りに触れておかねばならない。ミュージカルとしては歌と踊りの分量は控えめだったかもしれない。しかしその質的な重要度は高く、青葉市子の歌詞も、原作にある言葉に必ずしもこだわらず、本質は外さずこのミュージカルで歌われるべき言葉を提示していた。

 また、きれいに洗練された歌唱と踊りというより、子どもの時間が終わってしまうという切迫感と、真悟が届けようとするメッセージは二人に届くのかというサスペンスの中で、不規則な感情の高まりを含みこんだ崩しや歪みとともに、歌われ、踊られていた。高畑充希が随所で見せる痙攣的な動きは、セリフのパートと歌のパートをつなぐものとしてエモーショナルな表現になっていて特に印象的だった。

 原作同様、悟と真鈴のお互いに対するメッセージは、届いているのだが二人ともそのことに気づいていない。奇跡は起きたが二人はそのことを知らず、子どもの時間は終わってしまう。だがそもそもなぜ真悟はそのメッセージを自分の重々しい産業用ロボットの「肉体」を引きずって直接届けようとしたのだろうか。全世界のネットワークとつながっていたのだから、言葉だけ先に届ける通信手段はいくらでもあったはずだ。

 答えは明瞭だ。真悟はあくまで「人間」であり、機械の中に生まれた情報の束がネットワークの中で成長した抽象的な知能としての「精神」に過ぎないのではない。車輪もついていない鈍重な筐体と作業用のアームなどからなる物理的な「肉体」が、「精神」とともにあるという二重性こそ必要なのだ。ネットワークを介して一瞬で届けられる情報としての文字列では、ほかならぬ悟から真鈴へ、真鈴から悟へと、ほかならぬ真悟によって届けられるメッセージとしての重みを持ちえない。目の前にある肉体から直接伝えられるのでなければ、意味がないのだ。

 「今、ここ」に現に存在する肉体とともに生起しながら、必ず終わって、消えてしまう、形を残さない芸術としての演劇。その表現形態のポテンシャルを最大限に引き出し、原作の本質を素晴らしいクオリティで表現したのが、ミュージカル「わたしは真悟」だったと言うことができるだろう。