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 ロシアのアニメーション作家、ユーリー・ノルシュテイン(1941年〜)は『霧の中のハリネズミ』(1975年)、『話の話』(1979年)など、切り絵の技法を使った名作の数々で世界的に知られている。現在はゴーゴリ原作の『外套』を30年以上に渡って製作中で、2017年にはこれまでの監督作品(35mmフィルム)をデジタルリマスター化し、新たに発見された磁気録音からの音声を加えたブルーレイの発売が予定されている。そして2016年10月29日(土)には東京藝術大学大学院映像研究科(アニメーション専攻)とIMAGICAの共催により、このリマスター版の試写を兼ねたアニメーション講座が、講師にノルシュテイン本人を迎えて行われた。会場は横浜の東京藝術大学横浜校馬車道校舎。当日は『アオサギとツル』(1974年)と『霧の中のハリネズミ』、『話の話』がすべてニューマスターで上映され、山村浩二教授が講演の司会を、監督と長年親交のある児島宏子さんが通訳を務めて、ノルシュテイン監督と共に聴講者の前に立った。貴重な来日講演の内容を、以下に採録してお伝えする。

山村:
ノルシュテイン監督の素晴らしさは作品をアニメートして作る”動きのマジック”の強さと、物質との関係性をその物質と対話しながら作り出していくところにあります。モノは物質で、コトは関係性という意味合いで、今回は「モノとコト」と副題をつけさせていただきました。講座タイトルは「コンテンポラリー・アニメーション入門」となっていますが、今日の上映作品はすべて1970年代の作品です。しかしそれ以降も現在まで現役を続け、僕たちと同時代に創作に苦しみながら監督をされているということで、躊躇無くコンテンポラリー・アニメーションという枠組みで御紹介できると思います。
 まず経歴について伺いたいのですが、監督は1961年に旧ソビエト連邦のソユーズムリトフィルムスタジオに入り、1962年に最初にアニメーターとして作品作りに関わっています。
ノルシュテイン:
私の経歴は残念ながらとても単純です。昔からずっと美術を、絵を描いてきたのです。そして今でもあらゆる展覧会を見逃さず、絶えず美術の世界、絵画の世界に発見を求め続けてきました。しかし私は美大を4回も受験したのですが、一度も受かりませんでした。それで生活のため、サユーズムリトフィルム連邦動画スタジオの試験(アニメーターコース)を友人と受けてみたら、受かったのです。スタジオに入ってからは、そこで働く巨匠たちを愛していましたが、彼らの作る(デイズニー作品を手本とした子供向けの)作品は好きではなく、だからこそそれらとは異なるアニメーションを作ったのかもしれません。私は芸術としてのアニメーションを愛し、ドローイング・アニメーターとしては有能でなかったことから、人形アニメーターになったのです。
 最初の人形アニメーションのスタジオはロシア正教教会の中にあり、そこは私にとって特別な空間でした。なぜならロシアの有名な画家の『モスクワの中庭』という傑作に描かれた教会なのですが、私は子供のころからその絵が大好きだったもので、描かれた教会で働くことになり、大変驚いたのです。
山村:
1967年、アルカーディー・チューリンと共同監督された処女作『25日-最初の日』を作られた年に、結婚もされていますね。
ノルシュテイン:
私は様々な監督と仕事をしましたが、特に印象深かったのがロマン・カチャーノフでした。彼は元アニメーターで、素材に息を吹き込んでアニメーションを作るということを理解した監督だったのです。とても機知に富み、ゆかいで楽しい人物で、師事しながらも私は楽しい気持ちで仕事ができました。カチャーノフ監督が『ミトン』(1967年)の制作に呼んでくれたおかげで、私の経歴も輝かしいものになりました。そして同じ年に『25日-最初の日』を手掛け、またフランチェスカ・ヤールブソワと結婚しました。それからは彼女が、私のほとんどの作品の美術監督になりました。
山村:
『25日-最初の日』に続いて『ケルジェネツの戦い』(1971年)を、イワン・イワノフ=ワノと共同監督されています。
ノルシュテイン:
『25日-最初の日』はそれだけで今日の講演を語り終えてしまえるくらい話すことがありますので、やめておきます。
 『ケルジェネツの戦い』で共同監督となった私は、イワノフ=ワノ監督が何をするか全て決定済みだった事をひっくり返してしまいました。私自身の方針に基づいてシナリオから美術手法から、そのすべてをです。その時から私は非情で、強い権力を持った”酷い”監督になったといえるでしょう。
 アニメーションの動きをリムスキー・コルサコフの音楽に合わせたり、映像にイコン(聖像画)を取り入れたりしましたが、イワノフ=ワノ監督はそれらについていっさい口出しはしませんでした。それでも私は年上の監督に怒鳴りつけたりして、しかしそれは私が仕事に向き合ううえで、どうしても必要なことだったのです。
山村:
監督が切り絵アニメーションの技法を選んだ理由は何故だったのでしょう?
ノルシュテイン:
ドローイング絵画の表現の豊かさと人形アニメーションの形と動きを、切り絵で作り上げられると見なして選びました。切り絵の形を作る自由さを知ったのは、イワン・イワノフ=ワノ監督の『左利き』(1964年)の制作に参加した時です。それまで人形アニメーションの関節の様に繋がれていた切り絵の素材を自由に動かす技法を試し、それを見た当時の技術監督に「今日は20年来やってきた人形アニメーションの技法を捨てた、特別な日だ」とさえ言わしめました。
山村:
結婚したフランチェスカさんを美術監督に起用したのは、どのような理由から?
ノルシュテイン:
それはまったくの偶然で、最初は彼女と仕事をする気はありませんでした。フランチェスカは人間としても画家としてもソフトな人ですから、私と一緒に仕事をしたら心臓の薬が必要になると思いましたからね。でも彼女が美術監督として作品を理解し、納得したとき、アニメーションの素材を作る彼女の力は”羽をつけて飛び立つ”かのように凄いものがあり、一日の内にいったいどれほど仕事をするのだろうと思うほどでした。そして一緒に仕事を始めてからは『キツネとウサギ』(1973年)、『アオサギとツル』、『霧の中のハリネズミ』、『話の話』、すべての美術が彼女の手業によって作られたのです。
 『キツネとウサギ』はイタリアの民話が元になっていますが、彼女はそれを民俗的な農民芸術の美術スタイルで制作し、民衆の話として表現しました。『アオサギとツル』も元は民話で、ロシアに伝わる古い話ですが、日本的なグラフィックの表現にしたのです。後にフランチェスカは「『アオサギとツル』は一番軽い仕事だったわ」と言ったものです。
 彼女の手は柔軟性があり、例えばピアニストが鍵盤で音量を演じ分けるように、軽やかに絵を生み出します。ところが作品に熱心に入れ込みすぎ、細かい所まで描き始めると逆にものにならないので、彼女の美術を成功させるためには、ピアニストのように柔らかく軽く描かなければならなかったのです。
 例えば『話の話』の「疲れた太陽」のタンゴのシーンで、私が「タンゴを踊るシーンの質感は太くザッと描くように」、「丁寧に描くのは踊る人たちの顔だ」と指示したら、ちょっと信じられないことですが、彼女はそのシーンのエスキース(下絵)をたった一日で仕上げてしまいました。
山村:
『アオサギとツル』は大人が鑑賞できる作品としても際立っていますが、そのように作られたのはどのような意識からですか?
 また旧ソ連で大人向けの作品を作る上で、何か困難はあったのでしょうか?
ノルシュテイン:
私には娘と息子がいて、今では孫も8人います。娘と息子が幼いころはお話をよく読み聞かせていて、その時気付いたのですが、子供向けのお話の行間にはなかなか子供たちに理解できないことが潜んでいるのです。
 例えばプーシキンの『金鶏』という叙事詩に「オンドリさん、そんなに朝早く鳴いて、なんで女の子を泣かせるの?」という一節がありますが、その裏には少々エロティックな意味があり、どうしてオンドリが鳴くのかは子供には判らず、読んでいる大人だけが判ります。そしてそれを聞いた子供たちはやがて大人になり、今度は自分が子供たちに読み聞かせる側になって、初めて行間の意味に気付くのです。
 それからもう一つ重要なことを付け加えておくと、子供のための作品でも作り手が”自分自身の部分”を入れ込み、更に感情を入れ込んで、信じることができないと、本当の意味での作品にはならないということです。
山村:
『霧の中のハリネズミ』では音を作るのに二ヶ月かかったと聞きました。監督自身が効果音作りに関わったほか、作曲のМ・メェローヴィチさんとはどのような関係で劇中の交響曲を作り上げたのでしょうか?
ノルシュテイン:
彼は天才的な音楽家で、才能あるピアニストでした。アニメーションの構成に作曲家と一緒に音楽をはめ込んでいくのはもの凄く困難な作業で、作曲家に全部任せてしまえばなんでもないのですが、それでは劇中の音楽と映像が相互に補いあって増幅させることができなくなります。ですからすべての動きのタイミングと構成を私が細かくコンテで指定し、ストップウォッチを使って時間を全部確認したうえで、説得しながら彼に音楽を構成してもらいました。
 例えばハリネズミが大木を見上げる時、「”寺院を見上げる雰囲気”が欲しい」と指示したところ、彼は天に昇ってゆくような宗教的な音楽を付けてくれました。世界の樹木というような雰囲気を出して、濃密な緊張感に満ちた場面を作ってくれたのです。本当に奇跡のような作曲家でした。
山村:
『話の話』について、もっと伺いたいと思います。
ノルシュテイン:
私は子供時代に恐ろしい目に会いました。友達と雪合戦をしていたら、彼の投げた雪玉がたまたま酔っぱらいの背中に当たったため、私は酔っぱらいに追いかけられたのです。家に逃げ帰りましたが、酔っぱらいが私の部屋に入りかけたところを、母が追い返してくれました。すると雪の中をフェルトの長靴で走って、雪がまとわりついていたんでしょう。部屋の熱で雪が溶け、大きな水溜まりができていたことを覚えています。
 その時の背後から追いかけられた恐怖は生涯私について回り、そればかりか猟師が銃で動物を狩ることにも非常に恐怖を感じるようになりました。だから『話の話』で、狼が自動車に恐怖を感じて逃げるシーンは、私のトラウマによるものなのです。
 それから『話の話』には五つのエピソードがありましたが、残念なことに制作時間の不足から、削ったエピソードもあります。その一つは、ピクニックに行く人たちが酔っぱらって、カチャーノフ監督の『チェブラーシカ』シリーズに出てくる歌を歌っているというものです。バスの運転手が前方に狼がいることに気が付くと、そのバスに乗っていた酔っぱらいたちが空き瓶を投げつける。それで狼は畑に逃げ込み、バスはそのまま道を突き抜けていくのですが、このドラマティックなエピソードがもしあったなら、『話の話』で狼が詩人から盗んだ紙の中から赤ん坊が出てくるエピソードも、もっと強い印象を与えられたことでしょう。
 削った別のエピソードでは、私が住んでいたアパート地区で家が燃えながら空に向かって飛んでいくと、そこに白いテーブルクロスが舞い降りてくる。これはとても重要なシークエンスになるはずのエピソードでしたが、やはり実現しませんでした。同様に、子供たちが死んだ鳥の葬式をするエピソードも入れたかったのですが、子供たちのキャラクターが完成していて、子供用の葬送行進曲を作曲する予定だったにも関わらず、これも入れることはできなかった。本当は『話の話』で戦死通知が飛び交うシーンと、響き合うエピソードになるはずでした。
山村:
『話の話』では公園に少年と両親がいて、さらにリンゴを食べる少年が木の上にもいるシーンがあります。このシーンについて何か教えていただけますか?
ノルシュテイン:
子供が感じる単純な幸せがこめられているシーンです。子供時代の幸せは守られるべきですが、実際にはそれがどれだけ難しいかというメタファーがこめられている。子供の幸せを拒むのは兵士であり、戦争であることを連想して欲しいと思って作りました。木の上にいる少年はファンタジーです。

 講演は以上で終わり、監督はこの後、以下のような客席からの質問にも丁寧に答えていた。

「『外套』の進捗状況を教えてください。完成が遅れているのは、何か困難があるのでしょうか?」

ノルシュテイン:
私は実は仕事が早い監督で、『話の話』はアニメーター三人と1年半で作りました。ただし誰からも、何の干渉もされないという条件付きでの話です。旧ソ連時代は国が文化芸術を補助してくれましたから、私はお金のことはいっさい考えずに作って来られました。しかし資本主義体制に国が変わった。そうなってからのことは話したくありません。それでもずっと『外套』を作り続けていますが、以前と条件が違って、自らお金を稼ぎながら作り続けなければならないのです。

「作品に登場する動物を描くうえで、心掛けていることはありますか?」

ノルシュテイン:
動物はすべて人間なのです。だからハリネズミも人間です。世界の辞書には「アニメート=命を吹き込む」と豊かな表現が書かれていますが、今は誰も辞書を読まないし、アニメーションが何であるか考えない。世界は(文化的に)貧しくなりました。アレクサンドル・プーシキンは詩で「空よ、呼吸をしておくれ」と書き、空や大地を対話の相手として、呼吸する、命あるもののように表現しています。

「専門学校でCGを学んでいる学生です。若者に知って欲しいこと、学んで欲しいことについて、アドバイスをお願いします」

ノルシュテイン:
コンピューターには限界があります。情報を受け取れて便利な一方、怖さもあります。あらゆる情報をコンピューターで得られますが、情報以外の質感や存在感についてはそこから何も得られません。実は私にも、コンピューターの助けを借りなければ出来ないアニメーションの計画がありました。それで小さな作品を作ろうとしましたが、結局何も出来なかった。その時の経験を私の著書『草上の雪』に書きましたが、この二巻本はアニメーションを作る人々に繊細なものを学んで欲しいと思って、教科書として書いたものです。

「作品からロシアの自然や空気感を感じます。監督御自身はロシア国民としての意識を持って、作品を作っているのでしょうか?」

ノルシュテイン:
あなたがそう感じたのは、まさにそのとおりです。作家は自分の国がどういう歴史をたどり、今何が起きているのかをしっかり掴まなければならない。誰もが国民として生きているわけですから、自分を国の一部、宇宙の一部として、それに向き合っていかなければなりません。さらにその国の文化だけではなく、いろいろ国際的な影響も受けています。ロシアの詩人・プーシキンの祖父は実はアフリカの血が入っていますし、ロシアそのものであるような文豪のドストエフスキーも、実はドイツの血統です。国境を接していろいろな民族・文化がロシアの中に入っている。人の行き来が激しいし、日本もそうだと思います。だから純粋なロシア人も、純粋な日本人もいないのです。ですからみなさんは”日本人”という国民を超えて、いろいろなことを体験してください。黒澤明監督も『デルス・ウザーラ』(1975年)を、ロシアで制作したのですから。

 最後に16年前、ノルシュテイン監督が手掛けた『お休みなさい子供たち』という子供向け番組のオープニングとエンディングが上映されて、「コンテンポラリー・アニメーション入門」第23回講座は終了した。この講座の後も「アニメーションの神様、その美しき世界」と銘打ち、「監督生誕75周年記念 ユーリー・ノルシュテイン監督特集上映」(http://www.imagica-bs.com/norshteyn/)が12月10日(土)から、東京のシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開されている。